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深く沈める。

覚書が事実となる現実に反抗してみるブログです。

執筆中の「ロシアン・マーダー」を思考する―――死は果たして不義なのか?

雑記

昨夜の考察にあやかり、現在ああでもないこうでもないと頭の中を回転させているのが、こないだからアップしている「ロシアン・マーダー」の落としどころだ。

最初に思いついたのは、死にたくても死ねない人間が賞金を与えることで自殺ほう助をしてもらうというもので、その方向は今も変わっていない。今、ない頭を悩ませているのが、それが意思を持った一人の人間であるか?そうでないか?スタンドアローンコンプレックスではないが、例えば似たような思考をもつ者たちが無意識の内に一つの意思をもつ集合体となりえるのか?その辺りである。

 

当初書きなぐったプロットもどきの粗筋は以下。

 

とあるインターネット上の掲示板に突如書きつけられたメッセージ。「Le@ave.me」と名乗るその人物は、「わたし」を探して殺せば10億円、間違えた相手を殺しても1人につき100万円を贈与すると声明を発表した。借金に苦悩する三崎は、その書き込みを観て自分の母親を殺害し、証拠写真を送ると、宣言通り100万円が口座に振り込まれた。その様子を三崎がSNSにアップロードしたことから、世界は殺人で溢れかえるようになる。
止められない警察、続けられる他人と他人の殺し合い、恐怖に怯える人々…「わたしを解放して」と懇願する「Le@ve.me」の正体とは――。

 

「ロシアン・マーダー」の核

殺人に当たりと外れが存在する

無差別殺人に対してその報酬として、外れを引いたら手間賃100万円、当たりを引いたら10億円というのは、我々がスーパーで買い物をして、3000円以上のレシートで1回のくじ引きが引けるシステムと同じようなものだ。

それが当たりの赤玉か?外れの白玉か?貰えるのは商品券か?ティッシュか?そんな違いしかない。また、それが他人のレシートでもいいのか?自分のレシートでなければいけないのか?というところも、物語と関係してくる。

 

「わたし」の意思は無差別殺人に対し命令権限を有しない

あらすじでは固有名詞を出しているが、この物語において「わたし」の意思は話に直接関係しない。また「三崎」の行動は無差別殺人を引き起こすトリガーでしかなく、こちらもストーリーには影響はない。

実際に初めの方を書いているが、「Le@ave.me」の名称は消失しており、三崎という固有名詞も消した。動機も別のものに変えている。

 

「わたし」は個か?個ではないか?

結論を言えば「わたし」は個ではない。「わたし」は自らが死ぬために多数の無差別殺人を引き起こす拳銃を用意したに過ぎない。

 

終結は「わたし」と「僕」の関係性に依存する

承前で登場した「僕」は「わたし」によってとある殺人事件を犯し、賞金を手に入れたことで無差別殺人を繰り返すようになる。結果的に、「僕」は「わたし」の手によって、「わたし」の代役として警察等とやりとりをすることになる。

「僕」の役割が「わたし」の判断によって終わる時、この物語は決着する。

 

物語の意図するところ

また気味の悪い話を書きやがって、という感じだが、私には世に蔓延する「生=正義、死=不義」という方程式は全てには当てはまらないという持論がある。例えば、日本の医療でいうと、生かすシステムは整っているが死なせるシステムは整っていない。これは、意識不明の家族に対し延命処置をするかしないか、という一瞬の判断によって、それ以後いつまで続くか分からない莫大な医療費という名の延命料金を払い続けるか、葬式代だけで済ませるか、という一般的な収入の家庭においては死活問題になる可能性を孕んでいる。

以前書いた「THE CULT」内でも触れたが、「生きてさえいれば」という言葉は大変に酷だ。以下は作品内で登場人物の一人である三江が言ったセリフの引用である。

 

命だけでも、って言葉あるよねぇ。あれって残酷と思わない?

話もできない、頭も動いていないかもしれない、心臓だけが動いている人間を、果たして人間と呼べるのかね。思考して行動して結果を残す―――それは極端な言い方だけど。何かしら意志を持っているのが、人間本来の姿じゃないのかね。

 

「ロシアン・マーダー」の意図するところは「生=正義=絶対」という心身共に健常である者だけが持ち得る思考を破壊することである。

果たしてそこに至るまでを書き上げられるかは、私の根性と力量に依ってしまうが、この作品が皆の思考を変えるものになることを願う。