深く沈める。

覚書が事実となる現実に反抗してみるブログです。

2015年の雑記まとめ

your reality is killing me

 チャラン・ポ・ランタンを追いかけて既に2年が経過した。昨日のライブ見て感じた違和感のようなものを一晩考えて出た結論のメモ。twitter壁打ちからの加筆修正版。

 何かを表現するという活動において、商売関係が絡むとよく言われるようになるのが「メジャーデビューしてから作品がつまらなくなった」「有名になってか ら作品が悪くなった」という文言である。20歳そこそこのころは、その言葉に納得して「そうだ!メジャーデビューなんてするな!有名になるな!」なんて 思っていた。しかし、フリーターとして貧乏したり、そのあと普通に就職して自分が稼いだお金でライブ行ったり映画見に行っている内に、その変化というのは もしかして、本人たちが「自分自身でお金を稼いで心に余裕ができた」というのがすごく大きいんじゃないかと思い始めてきた。
 勿論、最終的に出来上がるものについては、所属してる事務所や制作に携わった会社の意向も多少はあるんだろうけど、結局本人たちがどんな環境で作品を制作しているのか、どんな状況におかれているのかでできる作品も、感銘を受けるものも変わってくるのではないかと思う。
 明日がないギリギリの状況で精神をそぎ落として出来る作品と、心に余裕をもった状況で作った作品は、作った人が同じだからレベル的には大差ないんだろう けど、その作品によって胸打たれる人種は前者と後者で全く違うと思う。私だってお金がない時、就職先が見つからなかった時はいつも死にたかったし、退廃的 で攻撃的な作品ばかり創作したり鑑賞したりしてたけど、今はそうじゃない。
 多分彼女たちは今、その「余裕が出てきた」最中にいて、今一本ずつ棘が抜けてきているんだと思う。私が2013年1月に観た、後ろ暗い、憎しみと空虚ば かりのチャラン・ポ・ランタンはそこにはいなかったからだ。完全に棘が抜けきった時、彼女たちはどんな風になっているのか。何年後になるかは分からないけ れど、楽しみにしていこうと思う。

("でも遠くにいってしまうのは少しばかり寂しい。" / 2015.3.14 Sat. in midnight / from twitter

 

全部無駄。

生きるのも死ぬのも面倒だなぁ、と思っていたら何の生産性もない大人になっていた。才能も生きる力も何もなく、爆音に埋もれて頭振ってたら首の骨がまがって病院代が嵩む日々。リターンのない税金を保身のために払い、帰ってくる予定のない金を国庫に納める毎日。世界が自分を中心として回っていると思っていた15年前。自分が世界の中心でないと知った10年前。そこから私は何も成長してないし、何も学んではいない。

私は人工授精で生まれたので、何か身体に不具合があったらそのせいだと思うことで生きている。排卵されることなく死んでいく予定だった卵子と、生き延びる予定のなかった精子で私はできていると思えば、多少の不幸は許された気になる。この思考は理解されるものではないし、理解してほしいとも思わない。

どうやって死ぬか、どこで死ぬかを考えていたらそのうち死ぬのかなぁ、と思っていたら年々希死念慮もなくなってきた気がするけれども、恐らくそれは「気がする」だけであって、今の状況が変化すれば私は再びシニタイシニタイと呟き始める。それが運命なのだし生来の性質なのだから仕方がない。生きたいと思わないし思えない。ただ生きるために不都合なので病院に通っているし働いているだけだ。

ただ生きているだけでこんなにも面倒だなんて。そう思ったらやっぱり死んだ方がましなんだろうか。だなんて。うそだよ。それもうそ。これもうそ。ぜんぶうそ。