深く沈める。

覚書が事実となる現実に反抗してみるブログです。

SHOAHとBENTとナチス・ドイツ(抄録)

※歴史音痴による佐々木蔵ノ介さん主演舞台「BENT」の雑感です。ナチス軍メインです。劇の感想はあまりありません。

※ご意見、修正点などありましたら、メールフォームかコメント欄からお願いします。

 

先月、BENTの大阪公演があったので観に行ってきた。昨年、戦後70周年として再上映、及びDVDの復刻が成されたクロード・ランズマン監督の「SHOAH」一部と三部を観ているので、それも踏まえた雑感を書き留めておく。

 

承前

強制収容所に収容されていたのはユダヤ人だけではない。

wikipediaの「ナチ強制収容所のバッチ」を引けば簡単に分かることだが、強制収容所に収容されていたのはユダヤ人だけではない。これは、大塚英志×森美夏の「木島日記」に収録されている「若水の話」を読んでも知ることができる。有名なところでは、BENTやSHOAHの題材となったユダヤ人の黄色い星、同性愛者を示すピンクの三角、そして木島日記に出てきたジプシー(ロマ)を示す茶色の三角である。他、犯罪者等も分類分けがされており、詳細を見るとかなり細かいことがわかる。(前述リンク:強制収容所のバッチを参照のこと)

 

強制収容所絶滅収容所は区別される

SHOAHダッハウ強制収容所、並びに多くのナチスによるユダヤ人抑圧を題材とした作品に見られるアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所ナチス史上最悪の施設と言われたトレブリンカ強制収容所等数多くの施設を題材にしているのに対し、BENTはダッハウ強制収容所における同性愛者の強制労働のみを題材にしている。

ここで気を付けなければならないのは、前述の通り、強制収容所絶滅収容所歴史学的に区別されているという点である。

BENTの舞台となったダッハウ強制収容所強制収容所に、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所、トレブリンカ強制収容所他4か所は絶滅収容所に指定されている。

アウシュビッツ=ビルケナウ等絶滅収容所認定施設が収容者を”殺すこと”に重きをおきていたのに際し、ダッハウ強制収容所は収容者を”いためつけること”に重きをおいていた。

これを頭においておかないとBENTを見る際は少し誤解をしてしまうかもしれない。(後述参照)

 

SHOAHについて

SHOAHとは

SHOAH」は、1980年代に公開された、クロード・ランズマン監督による10時間程度の映像作品である。私は運よく第一部と第三部を観ることができた。

 

・特徴―加害者、被害者、傍観者、三つの視点でナチスを見る

この作品で私が特徴的だと思ったのは、今まで観たナチス・ドイツのドキュメンタリーが被害者側からのみ焦点を当てられていたのに対し、こちらは加害者側のインタビューも盛り込まれているという点である。元SSの部隊員が施設の図面を指しながら虐殺の工程を説明するシーンは思わず嗚咽した。

各収容所に収容されたユダヤ人、そしてナチス・ドイツの組織の人間、収容所のすぐそばに住んでいたポーランド人の3つの視点と、各収容所の詳細な図面、映像、研究者の見解を挟みながら、話は進んでいく。

完全なドキュメンタリーではないが、極めて淡々とした作品である。

見ている内に段々と絶滅作戦が頭の中で立体的になっていくのが実に巧妙であったが、一回見ると一週間くらい精神的に死んでしまう。

 

BENTについて

単刀直入に言えば、「死ななくてもよかったのに愛のために死んだ人の話」であった。そもそも恋愛劇な上に主人公がドイツ人の同性愛者である。なのでナチスによるユダヤ人絶滅作戦なんぞ頭の片隅に畳んでおいておかなければならないのだが、私の場合SHOAHを観ていたのが不味かった。見てない方が楽しめた。

ストーリー自体は非常に面白く、シリアスな場面とコミカルな場面の転換、ナチスによる強制労働を逆手に取り愛を深めていく様など、日本の戯曲ではあまり見ることのない演出がとてもよい作品だった。ただSHOAHを見ているので石を運ぶシーンで笑う観客に(以下略)。

 

・消えぬモヤっと感

まず主人公:マックスが強制収容所に行きついたのが奇跡である。そして取引で薬やユダヤ人のバッチを手に入れたこと等が折り込まれていたが、個人的には「は??まじで??」となってしまった。歴史音痴なのであり得たのかよくわからないが、とりあえず「まじか…」という感じだ。

そしてこれは、ダッハウ強制収容所に収容されたドイツ人同性愛者の話である。行った先がダッハウであることを念頭におかなければならない。これは結構重要である。

 

・なぜダッハウ強制収容所であることを念頭におかなければならないか

ダッハウ強制収容所へは20万人が収容され、内4万人余りが収容所内及び関連施設で死亡したとされている。これは実は絶滅収容所に比べると余り大きな人数ではない。

例えば、トレブリンカ強制収容所絶滅収容所)では、14か月の間に約73万人が虐殺されている。桁が違う。ダッハウの比ではない。

つまり主人公:マックスが行った先は死ぬための施設ではないので、あそこで死ななければ生き延びれた可能性だってあったのだ。なぜ死んだマックス。

 

・補足:絶滅収容所における虐殺のプロセス

ここではSHOAHで一番衝撃だった、虐殺プロセスを記述する。

1、列車に対象者を詰め込む(とりあえず乗せられるだけ載せる。汽車が動けばそれでいい)

2、列車ごと施設内に送る(よく見られる架線のようなものは本当の架線である。あそこを対象者を積んだ列車が通って行った)

3、対象者を下ろし、選別する。ここで用なしとされれば、即座にガス室送りとなる。

4、ガス室に送られる対象者は、事前に身ごろもを剥がれる。また、髪を切られる。散髪には対象者を安心させる目的もあり、これには収容者の中で理髪の技術をもつ者が充てられた。

5、ガス室に詰め込まれ、ガスを送られる。(ガスの種類は施設によって異なる)この際、体力のある者は綺麗な空気を求めるため上へ上へと上がって行くため、体力のない者はガス中毒ではなく圧迫死が多かったとされる。死体は運ばれ、敷地内に掘られた穴へと投げ込まれ、埋められる。これも、収容者が充てられた。

名探偵コナン「あの方」に関する私的考察まとめ(2016.8.15更新)

某所で「あの方は赤井か?」という文言を見たので、校正をほっぽりだしてtwitter(ファンフィクション用棲み分け垢)で書いた適当な考察を貼ります。

尚、コナンはアニメ中心で原作は長く続きすぎているため購買様子見です。たまに歯医者でサンデーを読んだり、考察サイトで情報収集している程度です。

 

念のため折ります。

 

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「木島日記」(漫画・ノベライズ・完結編) まとめ(2016.7.24最終更新)

パスティーシュを書くにあたりまとめたものです。

※関連シリーズが散見されるので本記事では以下のとおりとします。

ノベライズ

「木島日記」新書版…ノベライズ

「木島日記」文庫版…ノベライズ文庫版

「木島日記 乞丐相」新書版…「乞丐相」

「木島日記 乞丐相」文庫版…「乞丐相 文庫版」

漫画版

「木島日記」漫画版…漫画版

小説

「もどき開口 木島日記 完結編」…「完結編」

関連キャラクターが登場するもの

「とでんか」…「とでんか」

多重人格探偵サイコ」…「サイコ」

 

一、木島平八郎について

口調:

漫画版では比較的綺麗で簡潔な言葉を話すが、ノベライズ及び小説版では横柄な態度が目立つ。特に、一人称は「僕」で統一されている漫画に対し、ノベライズ及び小説版は親しき人物には「俺」、瀬条教授等目上の人物には「私」という使い分けが見られるが、大塚英志特有の表記ゆれと思われる。これについては、「サイコ」において、小説版と漫画版で西園伸二と雨宮一彦の呼び方が異なることにも認められる。

仮面:

漫画版においては、「砂けぶり」までは、口の部分が開閉されるものを使用していたが、それ以降は幅の若干狭いものを使用している。「砂けぶり」まで使用されていたものは、口の部分を開閉することによって飲食が可能であり、これは「若水の話」において千疋屋でジュースらしきものをストローで啜っている場面で確認が可能である。ノベライズ及び小説版においては、表紙絵からも確認できるとおり完全に顔を覆うものが使われているため、ノベライズ版「若水の話」では、美蘭が「その仮面でどうやってみつまめを食べるのか」という旨訊いているため、飲食は仮面を外さないと不可能である。

人物像:

漫画版では比較的紳士に描かれるが、ノベライズ及び小説版ではかなり大雑把であり気性が荒く描かれる。前者については、「天地に宣る」において、ハウスホッファーを逃がしたことを一ツ橋に告げる場面において確認できる。ノベライズ及び小説版においては、美蘭を抱えていく描写等を散見することが可能である。

藤井春洋との関係性:

完結編において、春洋と同一人物であり、現世とあの世が近づいていく兆候として分裂したとされている。最終的には木島は3人に分かれ、月を殺した木島は首を撥ねて死ぬ。そして藤井春洋であった木島は戦死し、清水義秋であった木島は生き延びるが、ここで「とでんか」との祖語が生じる。「とでんか」の課長代理の木島は結局誰なのか。清水は「サイコ」においてアーヴィングを殺害するために死亡し、春洋は戦死したことを考えると、月を殺した木島が甦りの禁術で蘇生したと考えるのが妥当であると思われる。

若しくは、木島「平八郎」ではなく、その後の木島である可能性もある。


二、八坂堂について

所在地について:「北神伝綺」では神田神保町にあることになっているが、ノベライズでは本郷付近に店があることになっている。漫画では言及されていない。

間取りについて:二階に客間(階段を貫通したところ)と居間があること、一階部分が店舗であることは漫画で確認が可能であるが、完全に推定できない。

 

三、根津について

ノベライズでは妹が「食人」をし、根津は「殺人」「近親相姦」を犯したとされているが、漫画では妹の存在が省略され「殺人」「食人」「近親相姦」全てを犯したとされている。また、ノベライズでは吃音が顕著ですが、「もどき開口」及び漫画では吃音が見られない。

尚、素行、記憶の喪失状況等は漫画とノベライズで差がある。尚、ノベライズと「完結編」でも差異が見られるため、漫画版・ノベライズ・完結編と違う人物と捉えた方が理解は容易である。

 

四、土玉について

ノベライズでは独身であり、瀬条機関の直営病院に住み着いていることになっているが、漫画で出てきた緋奈子は妻とみられる。どうなっているのか不明。

また、「とでんか」に出てくる土玉は「もどきの開口」そのものであったが、何を目的にもどきの開口となったのかは不明瞭である。

 

五、瀬条機関について

所在地について、機関本部は本郷付近に所在、月と木島がいた施設は郊外にあると仮定するのが容易である。ノベライズでは施設はいくつかあるようにも書かれており、根津が「砂けぶり」で捕獲された時期が、木島が月に対する実験をしていた時期と重なるにも関わらず、砧の施設に連れていかれた描写がないことから、根津と月は違う施設に連れて行かれたものと想定できる。

 

六、実在の人物(wikipedia等へのリンク集)

折口信夫

折口春洋

人間避雷針:持衰のお兄ちゃん

若水の話』安江大佐

『天地に宣る』ハウスホッファー

 

七、その他

ノベライズによると、瀬条教授は帝都大学に駐在、木島と月がいた研究所は表向きは瘋癲病院として砧にあることになっている。

しかしながら「人間避雷針」の回において、折口信夫邸が品川区にあったことを考えると、春洋が砧までの二十キロ程度の道のりを歩いた、もしくは品川区付近で事故にあったにも関わらず砧の瘋癲病院に搬送されるのは不自然と考えられるため、「人間避雷針」の回で春洋が搬送された病院は帝大附属病院であると考えるのが妥当である。

過去作「THE CULT」を考察する。

職場の人と拙作「THE CULT」の(一応)主人公:花崎の人物像について議論したのが面白かったので備忘録として一部を書いておきます。一部その後考えた補足を含みます。

 

■なぜ花崎はアルコール依存症に陥ってしまったのか?

無趣味だったから。例えば、私の元同居人は不安である状態を保持したいためにアルコール依存症気味になったが、花崎はストレスを発散させる場がなく、たまたま傍にあったアルコールに手を出したと考える。

 

■アルコール以外の手段(女性関係等)はなかったのか?

そもそも、女性に手を出すことが趣味になっている人は、ステータスとして既に何かを持っている場合が多い。一般的な趣味でなくとも、自分を魅力的に見せることや女性にちやほやされる自分に悦に入っている場合が多く、それ自体が依存であると考えられる。

 

■周囲に精神科やカウンセリングをすすめる人間はいなかったのか?

一般的に精神病を認める人間自体が少数であることを前提とした。

また、想像通りのレールを歩き、趣味もなく、理想の大人像を保っていると心のどこかで信じている人にとって、それをさらけ出すことは家族であれ友人であれ困難である。

 

■宗教に走ってしまった原因は?

花崎のような孤独を認めたことのない人間は、自らが孤独に陥ってしまった時にどう対処していいか分からない。前述したように、孤独である自分をさらけ出すことを恥とする人間にこの傾向が多い。自分が今まで認めたことのない孤独と対面した時、無条件に優しくする人間の存在は支柱となると同時に凶器と成りえる。花崎の場合はそれにあたる。

 

■どうして教師を主人公にしたのか?

「品行方正な人物」が崩れていく様を描くのは、その人物がいかに品行方正であるかを緻密に描かなければならない。3万字という短編小説、及び私の技量では、それを描くことが困難であった。故に、一般的に「聖職」と言われる教師を主人公にし、アルコール依存症に貶めることで「品行方正な人物が崩壊していく様」を端的に示した。また。これまでの経験から教師という人間は価値を高められがちであり、その実態は神格化されている部分がある。この化けの皮といってもよい部分を剥がしてみたかった。

 

あらすじだけを言って、出てきた質問に答えていったんですが、自分で自分の作品を客観的に見られるよい機会でした。掘り下げるって大切だな、と再確認。

いやー、なんか私は周りに文章を書く人が多いので全く違和感を感じたりはしないんですが、文章を日常的に書かない人にとっては、小説を書いたりする人って奇特な存在なんですね。結構興味深くきいてくれて楽しかったなー。